ヒゲが薄いと語る男
カフェで、若い男女が話している。
大学生だろうか。
会話を盗み聞きするのは良くないとは思いつつ、声が大きいので仕方がないとも思いつつ。
話している内容から、二人は大学のサークルで仲良くなったのだと思われる。
男性は女性に好意がありそうだし、女性もまんざらでもなさそうだ。
「女の子がよく言う男の清潔感って何?」
男性が何の脈絡も無さそうだった会話から、突然そう言い放った。
「髪がちゃんとセットされてるとかヒゲ剃ってるとか、服がシワシワじゃないとかかな。本当最低限のこと。イケメンとか関係ない。」
女性は机の角を見つめながら早口で喋る。
「面白い。女の子ってそんなとこ見てるんだね。」
多分、自分がイケメンだと思っているその男性は女性の目を真っ直ぐ見つめていた。
「大丈夫。ちゃんと清潔感あるから安心して。肌綺麗だし」
女性が笑う。
「でも、肌ツルツルなのもなぁ」
でも? 私は思わず心の中で呟いた。
褒められたんだから、まずはありがとうでは。気づくと私は二人の会話に夢中になっていた。
「もっといい感じにヒゲとか生やしたいわ」
茶髪マッシュの顎の細い男性はスキニージーンズの裾を伸ばす。
「ええーいいよーそのままで。絶対ヒゲない方がカッコいいって」
女性は男性の顎の先を見ている。
「いや、俺ヒゲ薄いのけっこう悩みなんだよねぇ」
いや? 私はまた反応してしまった。
「ええー絶対ヒゲ薄い方がいいよ。ヒゲ濃いのとか女子好きな子少ないよ。まぁたまにいるかもだけど、私は絶対ツルツルの方がいい。だからそのままがいいよ」
なぜかは分からないが、妙に熱を帯びてヒゲの話をする女性。
「そっか、まぁ男と女じゃ理想が違うんだなぁ」
まとめた。
いいの、それで? やたら聞き分け良いなこの人。私はどこか違和感を感じていた。
この男性、相手が自分と真っ向から違う意見を主張してきたのにこの受け入れ方......。
優しくて懐の深い人なのかなぁ。
かもしれない。でも、なんか違う気がする。
女性がヒゲが薄い方が好きと言った後の確信犯的な身の引き方。
この人分かってたよね、そう言われるって。
仮にこの男性が、「変態紳士」の高嶋政宏くらいご立派なヒゲを本気で蓄えたいと思っているとして、ヒゲが生えない悩みを同性に語っていたのなら他意は無いように思える。
しかし、彼がヒゲが薄いと語っている相手は若い女性だ。
若い日本人女性で、濃いヒゲが生えない男性はセクシーじゃないから嫌なんて言う人は珍しい。
もちろん例外もいるが、だいたいの大学生くらいの女性はヒゲが濃い同年代の異性の方が見慣れていない事くらい、この男性も大学生なら理解しているはずだ。
なのにわざわざ女性に「ヒゲが薄いのが悩みなんだよね」と語るのは、
「えっ、ヒゲない人の方が私好きだよ」と言われる事を十中八九予想しての、気になる異性に対しての自虐風アピールではないか。
あぁ、考え過ぎだろう。そんなにこの男性は考えていなかったかもしれない。
ただ、女性に対してヒゲが薄いのが悩みと語る男性は仄かに信用できない匂いを感じる事は確かだ。
「悩み」という美味しそうな料理名を軽い気持ちで、何にでもつけないで欲しい。
期間限定抹茶味の〜くらいみんなが興味を持ってしまう魔法の言葉なんだから。
デフレーションの波が「悩み」という言葉の価値にも迫ってきているが、それはできれば食い止めたい。
現代人は自虐が大好きだから、「悩み」と言っておけばなんでも言えてしまう。
「悩み」の価値が下がってしまうと、本当に深刻な悩みを持った人の話をいつか取りこぼしてしまうかもしれない。
そうならないように、したい。
茶髪マッシュの細顎男性よ、本当にヒゲが薄いのが悩みなら、カフェで同級生の女の子に話す前に、黙って植毛してきてください。
是非、あなたの変態紳士姿を一目見たいと願っています。
もう戻れない世界線の私
どうも、初めまして。
せんのと申します。
私はカフェで勉強ができません。カフェで仕事ができません。
気になることが多過ぎるからです。
あのカップル、どっちも別にコーヒー好きじゃないんだろうなぁとか。
あのおじさん、モーニング高いって言ってたけど名古屋の人なのかなとか。
ああ、何しようとしてたっけ。
外へ出て作業をしようとすると、毎回目の前に映るものから妄想が膨らみ過ぎて作業が捗りません。
無理だとは分かっていても、ふと数ヶ月に一回カフェ作業に挑んでみたくなります。
でも、やっぱり一度も作業ができたことはないです。
こんな話を人にすると、生きづらそうだねとよく言われます。
はい、生きづらいです。
カフェで作業ができないだけなら、カフェに行かなければ済む話ですが、色々と気になって妄想が膨らむ癖は仕事などにも直接的に影響しますし、それはやがて心の健康にも関わってきたりします。
うーん。こんな癖いらないなぁ。ない方が人生うまくいく気がする。
心からそう思ってしまいます。
でも、私はもうこの癖のない私には戻れないのです。
もう戻れない世界線を生きるしかない私。じゃあ、せめてこの癖を使って何かできることはないか。
書こう。
そう思いました。
感じてしまったこと。妄想してしまったこと。
そこに正義なんてないけれど、なんかぼんやりしてて変な人だったねって、そんなことを私のお葬式で言われる人生なら、いっそ私が見ている景色、感じていることを全部文字にして残したくなりました。
もう戻れない世界線にいる私の文字たちが、
もう戻れない世界線の君に見つかるまで。